


















[香水・フレグランス(レディース・ウィメンズ)・香水・フレグランス(メンズ)・香水・フレグランス(その他)]
税込価格:-発売日:-
2021/9/4 02:06:22
「チョコレートの匂いがする香水」というカテゴリがある。そんなキーワードで検索すると、まず必ずと言っていいほど出てくるのが、モンタルのチョコレートグリーディー。こちらはミルクチョコウェハースみたいな香りとも言われるが、それ以上にガツンとビターなチョコレートの香りを感じたい場合は、フエギア1833のムスカラカカオがおすすめだ。
フエギア1833は、もともと南米パタゴニアの自然や歴史、文化へのリスペクトから生まれた香水ブランド。瞬く間に100種類を超える香水作品をリリースし、人気を博している。
中でもフェロモンと類似した分子構造をもつ「香りのない分子」を採用したというムスカラシリーズは、一人一人の肌本来の匂い分子を吸着することで揮発を促し、その人の肌の香りを引き立てるというアナウンスで注目されている。ほんのりウッディに香る人もいれば、柔らかなフローラル系の香りを醸し出す方もいるという。ちなみに自分の場合ムスカラはややくすんだウッディになる←昭和枯れすすき
そのムスカラに選りすぐりのカカオ香料をプラスした作品、それがムスカラカカオだ。かつては限定品であり、一部のフエギア沼な方がこぞって購入したレアな一品だったが、現在は通常ラインとして販売されている。人気があると見るやどんどん売り方を変えていくテンポの速さも、このブランドの特徴といっていいだろう。基本、攻めは強めだ。
2019年2月にリリースされた当時は、800sのカカオ豆からわずか1sしか採取できない貴重なカカオ香料を用いたこと、エクアドル産とメキシコ産のカカオにこだわってブレンドしたことなどで話題を呼んだ。
では、巷でビターチョコレートの香りと言われるムスカラカカオ、一体どんな香りなのか?
ムスカラカカオをプッシュする。ジュース色がロットを経るごとに濃くなっているように思うのは気のせいか。肌にのせるとその瞬間、ダークラムの冷たく芳醇な洋酒香が立ち上る。このへんショコアトルを思わせるイントロ。すぐさま、鼻にキュンとくるほどロースティーでドライなカカオの香りが立ち上がってくる。これは思いきり天然のカカオの香りだ。チョコレートというよりビターカカオ。ミルクのまろやかさも砂糖のカラメル香もない。ギリギリ苦い。発酵させ、丁寧にローストし続けたカカオ豆の黒く焦げた香り。
このカカオブレンドの香りには、幾つか特徴がある。まずは苦みの中にもフローラルなふくよかさが感じられる点だ。これは明治製菓の「産地別カカオで作ったチョコレートの風味」分析データによると、エクアドル産のカカオの特徴だ。また、高音部でコーヒーにも似た酸味と強い苦みが出ている。このあたりは、同ブランドの「チョコレート効果cacao 86%」のようなカカオ成分が高いチョコレートの香りに近いものがある。むろん本物のチョコやココアと比べると、ギリギリとビターで、大人向けなカカオ。これは本当にパワフルな苦みと渋みをもった黒いカカオの香水だ。
賦香率は高めで、付けてからゆうに7〜8時間は香りが続く。ムスカラシリーズは厳選した単一香料をムスカラと合わせるので、展開はシングルノートだ。したがって調香じたいはシンプル。だから次々に作品を出せるのだろう。調香技術よりも素材じたいのよさで勝負。フエギアの作品には全体的にそんな印象がある。
ただ
それにしても値段は高すぎないか?
このムスカラカカオ、100mlボトルを買うには68200円必要だ。なぜ50mlをやめたのだろう?むしろ10mlを出してほしいくらいなのに、と庶民はカカオ高配合のチョコをかじりながら思う。さすがに86%は苦い。ムスカラカカオの価格を思うと、つい心も苦みばしる。
口直しとばかりに少し甘いチョコレートも口に放り込んだ。お、エクアドル産のカカオ豆を使ってる明治の「ALMOND 香るカカオ」は酸味の感じがムスカラカカオに近いな。甘いし、アーモンドも香ばしい。対して「チョコレート効果72%」の方は、苦みは強いもののミルクの香りが少しあって、これはムスカラカカオにキロンボをのせた感じだな、などなど…。
いろいろなチョコレートの味と香りを比べながら、紀元前から人々の食を支えてきたカカオ豆に思いをはせる。「テオブロマ(神の食物)」と呼ばれ、珍重されてきたカカオ。その豊かな香りと味は、いつの時代も人々を魅了してきた。
気温が下がってくると、不意に思いっきりチョコレートの香りが恋しくなることがある。そんなときはカロリーを気にしながら我慢するよりも、ムスカラカカオを身体中にプッシュしてみるのも一興かもしれない。
黒くて 苦くて 心地いい。 神のカカオの香りに包まれて。
2021/9/11 09:30:58
本当にすごい香りなのに、つけると周りから煙たがられるタイプの香水がある。特に日本では。そのタイプの香水をつけていると、周囲から「お香の匂いがする」「お寺の匂いかな?」「こげくさい」などと言われるシリーズ。もっとひどいときには「くさっ!何燃やした?」とか、「う」と言って鼻をつまんで走ってロングディスタンスを取られたり。←いろんな経験してますね
全く失礼だな。
そんなとき本当は追いかけていって
あのね!君は「くさっ!」って言って逃げたけどね、これ世界最高の香水、アムアージュのジュビレイションXXVなんですよ!!いいですか?今からこの香水がどれだけすごいかその頭にたたきこんであげるから耳かっぽじってよく聞きなさい!
と激しく語ってあげたいところだが、死ぬほどウザがられるだろうから毎回地団駄を踏みつつ自重している。←正しい
ということで「本当はすごい香水なのに付けると結構な確率で周囲からディスられて地団駄踏んでしまう香水コンテスト」で確実に上位に入ると思われるジュビレイションXXV。これがどんな香水かと言うと。←結局語りたいんだな
まず
「世界で最も高価な香水」と言われたオマーンの香水ブランド、アムアージュの作品であること。これはオマーン王直々の命令で、かつて金と同価値とされた特産品の乳香(オリバナム)のすばらしさをアピールすべく作られた国家プロジェクト的香水群。今でこそ中身はたいしたことないのに価格だけ異常に高い香水はあふれているが(←言ってしまったね)アムアージュの香水に関しては「金に糸目はつけん!世界最高の素材をガンガン使って本当に最高の香水を創るんだ!ただし乳香は絶対使え!!」と言ったかどうかは知らないがそんな感じ。だからとにかく使われている香料がものすごい高価で稀少な物ばかり。これがすごい。
そして
そんなアラビアンナイトな豪華香水群にあって、この作品は周年記念作であるということ。2008年、アムアージュ25周年を記念して作られた特別な作品、それがジュビレイション。「歓喜」という名のこの作品はメンズ用に「XXV」、レディース用に「25」の2つが用意された。ここで紹介しているのはメンズ作品のXXV。調香に携わったのはアヴァンギャルド・ロッカー、ベルトラン・ドゥショフール。まさに「ブランド25周年の喜び」にふさわしい人選。
では、その香りとは?
金の王冠キャップを外してジュビレイションXXVをスプレーする。瞬間、まず鼻に抜ける透明でスパイシーな香りがある。コリアンダーだ。その10秒後、ムワッと温かみのあるくぐもったアニマリックな気配、同時にそれを中和しようとするかのようなスッキリした樹脂の酸味が広がる。思いきりアラビアン。頭にターバン、長いあごひげ、湯水のようにお金を使う中東の大富豪の姿が脳裏をよぎる。乳香(オリバナム)とミルラの爽やかな酸味とグリーン、ラブダナムのスモーキー&アニマリック。よくも悪くもこのトップだ。この樹脂&バルサムてんこもりMIXが好きか嫌いか、それがこの香水のあなた評価になる。
3分後、煙たいロースティーな香りがじわじわと下からせりあがってくると香りはミドルになる。ものすごい香料の重層。超ミルフィーユ状態。複雑で多層的な香料のせめぎあいを感じる。それでも主旋律は、爽やかな酸味と香ばしさが特徴の乳香の香り、アムアージュの代名詞ともいうべき「オマーンの乳香」だ。そこにわずかなローズ、大量のインセンスの煙と重厚なウッディがベース音を奏でて共鳴し、荘厳なシンフォニーのように感じられてくるミドル。なんというバランスのよさ。超ドライ、そしてスモーキー。
…ああ、お母さん。砂漠の蜃気楼が見えるよ。のどが乾いたな。何か木が焦げているよ…
は! いかんいかん。思わず香りで変なトリップをするところだった。気を取り直して。
ミドルは本当に複雑で、時間がたつにつれてインセンスの乾いたスパイシーな香りが強くなってくる。その下からミルラの酸味、ウードの黒いウッディ、パチュリの苦味、ベチバーの干し草感などが、これでもかこれでもかとフワフワ片鱗を見せながらドライダウン。つけて3〜5時間程度。海外では「こんなにすごい香りなのにサイレージが短い」という意見も多いようだ。ただ香料は本当多い。どんだけ天然香料を入れたんだと思う展開。確かにこれはそのへんの庶民がカジュアルにつけこなせる香りではない。温かく、包容力があって、複雑なのにシャープでスッキリ。まさにこれは「王の香り」だ。
ジュビレイションXXVをつける。複雑で、パワフルで、スモーキーな薫香に酔う。ぜひ機会があったら肌にのせてみてほしい。これは本当にすごい香りだ。ほら。
なんで逃げる!!
2021/9/18 11:57:58
かつて「桃とシプレの名香」と言えば、長らくゲランのミツコだった。ただ、正直現代の女性に往年の名作ミツコは渋いと思う。リスペクトも含めてあえてそう言う。凛としたたたずまいが女性にも求められた時代は遠くなり、今は柔らかく華やかなスタイルの女性が多い時代。そして、そうした女性に似つかわしい最新型の「桃とシプレの名香」を見つけた。それがフラッサイのティアンディだ。
フラッサイは、NYのフレグランス業界でのキャリアを経て、母国アルゼンチンに帰ったナタリア・オウテダ女史が、2013年から展開しているニッチな香水ハウスだ。彼女は自分でも作品を調香できる技術と経験をもちつつも、かつて親交のあった信頼できる調香師に調香を任せ、珠玉の香水のみをリリースし続けている。
そんなナタリア女史が、自身の趣味である太極拳と道教の「不死の桃伝説」からインスピレーションを得て創った香りがティアンディだ。これは中国語で和訳すると「天と地」の意。天と地、とくれば中国の陰陽説が思い浮かぶ。そこに3000年に一度実を付けると言われる「不死の桃」の香り。いったいティアンディはどんな香りなのか?
ティアンディをスプレーすると、まず最初に広がるのはダークな洋酒ライクなプラムの香り、そこにシダーっぽい冷たいウッディが絡んで、セルジュ・ルタンスの名香フェミニテ・ドゥ・ボワの紫色のトップにとてもよく似た開幕。
ところが
そこからふわふわと香料が入れ替わって霧のようにただよい、あたりは深山の幽域といった具合になってくる。
まず温かくスパイシーなジンジャーの香りが広がってくる。かと思うと、冷たくひきこむようなアニスが主張してくる。この温と冷、これこそ陰陽説だ。天と地、善と悪。陰陽説はこれら正反対の事象が、互いになくてはならない関係のままこの世界を構成しているという考え方だ。さらに、ジンジャーは「外に拡散」する香り方をし、アニスは「内に引きこむ」ような香り方をする。この点でも対照的だ。よく考えている。
5分後、香りはさらに複雑に変化する。深山の霧の中に煙の臭いが立ちこめてくる。スモーキーなインセンスの匂いだ。それは炒った茶の香りのようでもあり、焦がしたコーヒーの香りのようでもある。焙煎茶のように香ばしく、どこかほろ苦い煙の香り。これは人がそこにいる気配を感じさせる展開。伝説に登場する崑崙山(こんろんさん)の頂上、美しき仙女、西王母の住まう地にたどり着いたようなイメージ。そんなふうに人が物を燃やす香りが展開してきて、もはや最初のフェミニテライクな気配がなくなったことに気付く。
そこは清涼感ある薬草の匂い、焙煎した茶の香り、そして香木を焚く煙たゆたう天上の園。生と死を司る双性の神、東王父と西王母の住まう地。
温かいジンジャーと冷たいアニス。白いアイリスのパウダリーと茶色いサンダルウッドのウッディ。そのコントラストの妙。なんという二律背反かつ対照的なミドル。これは生と死、陽と陰になぞらえた、天地の香りの四重奏だ。
そして
驚くべきことに、このミドル前半から香りはらさらに変化していく。それはつけて10分ほどして唐突に現われて本当に驚く。
3000年に一度咲く伝説の桃。その木に実る桃の香り。それがこのミドル後半から突如、出現する。
通常、桃の香りはトップで感じられるフルーティーだ。ラクトンの一種である通称ピーチアルデヒドは、女性特有の甘い匂いの成分とも言われるが、なぜこんなスモーキーで複雑な煙の香りの後で突然出てくるのか?全くもって信じられない。調香師はトム・フォードのPBシリーズ人気を一気に押し上げたタバコヴァニラの作者、オリヴィエ・ギロティン。まさかあんな武骨な香りを創る方がこんな繊細な作品を作るとは…。本気でお見それした。
ラストはこの桃の香りにスモーキーなインセンスが絡み合いながら終息するというとても不思議なエンディングを迎える。つけて4〜6時間、ふんわり桃の香が残る平穏なラストだ。
永遠の命、不死の象徴、邪気や災厄を祓う神の食べ物とされてきた、桃。中国原産の原種に近い桃は大福のようにつぶれた形をしていて「幡桃(ばんとう)」と呼ばれ、今なお珍重されている。神の園で西王母がふるまう伝説の桃はこれに近い物であったらしい。食べたことはないが、その形からは想像もできない甘さをもち、味は格別だという。
神の山の入口を示すプラム酒の香り。ジンジャーの温かい吐息。アニスの冷たい大気。桃のまろやかさ、それは生。お香のスパイシー、それは死。
森羅万象の世界を生々流転せし者、神の桃源郷へとたどりつき、遂に不死の桃を食らう。
ティアンディ。天と地の間で。
2021/9/25 11:20:44
秋の夕暮れ。ペールピンクのグラデーションの彼方にきれぎれの雲を見送っていたら、狂おしいほど切ない曲を聴きたくなった。プレイリストから選んだのは
クレナズムの「ヘルシンキの夢」。
ビートの効いたベースの上にロマンティックなギターリフが重なるシューゲイザーロック。ポップで透明感のあるヴォーカルが無機質っぽく、けれど孤独を切り裂くナイフのように胸に迫ってくる。
暮れなずむトワイライトタイム、曲とともに心が夕空の果てにもっていかれそうになる。美しい風景にシンクロするシューゲイザー。このコンピレーションには、心をときめかせる香水も不可欠だ。そう思ってどんな香水が似合うか考えた。
フルーティーやフローラルは、似合いすぎて気持ちが弱くなる。
グリーンは風を感じるけれど、夕景の色にそぐわない。
ならば、秋の夕暮れを思わせる琥珀色のウッディアンバーだ。
セレクトしたのは、メモワゼロンドンのヒュミリタス。
Memoize Londonは、英国キャサリン妃のご成婚フレグランスに選ばれたホワイトガーデニア・ペタルズで一躍話題になったイルミナムから独立したブランド。香りの特徴は、どこか中東風味のウードやローズがそこかしこに見え隠れするフローラルやオリエンタル風の作品が多いことだ。現在、日本での販売店はないようで、公式サイトからネット購入することができる。
白ボトルのヒュミリタス(Humilitas)は、同じ白ボトルにヒューマニタス(Humanitas)というスペルのよく似た作品があって混同しやすい。香調はもちろん異なる。
刻々と変化する夕空のグラデーションが消えないうちに、そう思いながらヒュミリタスを肌にのせた。
プッシュした瞬間、赤い薔薇が開いた。追いかけるように、透明感のあるレザーの香りが重なってくる。プッシュした手首のところがツヤツヤと光っている。高濃度のオイルを使っていることがわかるトップ。
次第にレザーが主張してくる。公式サイトの構成を見る。レザーはない。でもこれはソフトレザー、あるいはウード系の香りだと思う。香料イメージは次のとおり。
トップノート:マンダリン、レモン、ベルガモット
ミドルノート:ジャスミン、リリー、ローズ、サフラン、ナツメグ、ダバナ、パウダー
ベースノート:サンダルウッド、アンバー、ラブダナム、バニラ、バルサミコ、ムスク、パチュリ
この中ではトップのシトラスはほぼ感じられない。最初にふっとローズが香ったと思った瞬間に、ほんのり焦げた洋酒ライクなウードが香ってくる。
夕日が空を焦がしている。「ヘルシンキの夢」の澄んだヴォーカルが柔らかく空気を切り裂いてゆく。
「小さな最果てを見た だれかの描いた絵を見た 震えながらつぶやいた 愛想笑いを覚えた」
ウードの暗い香り。それは頭上から静かにすべりおりてくる夕闇の匂いだ。ヒュミリタスのミドルは、次第にサフランの酸味が穏やかに広がってきて、ウードのベールの陰に隠れていたローズやリリーのくぐもったフローラルをかいま見せる。ウード&ローズ。夕闇に咲いた夕日。
ブルーグレイのシルエットに染まる街。ブラッディオレンジの空。縁を金色に輝かせているきれぎれの雲。確かにこの風景は「小さな最果てだ」そう思った。
やがて空が翳りゆくとともに、ヒュミリタスの香りは次第に温かみを増して肌になじんでゆく。暗くレザリーだった香りが、芳しいサンダルウッドに変わってゆく。つけて30分、黒いビロードをまとっていた薔薇は、クリーミーな茶色い香木の香りになって、空のオレンジブラウンとシンクロしてゆく。
「明日 戻れないの 頭の中見せてほしい 命がけで説明してほしい」
「ヘルシンキの夢」のサビのファルセットが残照の中に吸い込まれてゆく。ヴァニラクリームをまとった香ばしいサンダルウッドが、風景とメロディとともに記憶の中に折りたたまれてゆく。
そう言えばクレナズムの「ヘルシンキの夢」が収録されたアルバムタイトルが「In your fragrance」だったことを思い出す。君の香りに抱かれて、そんな意味合いだろうか。クレナズム最果ての空。心を浸食するかのように香りが肌にとけてゆく。
残映の空。濃いオレンジの光。紫の陰影。その彼方にヒュミリタスは静かに香っている。アンバーの甘さとサンダルウッドの温かみをいつまでも残して。そして今日というなにげない一日が優しく死んでゆく。
ヒュミリタス。つつましくあること。
何の記念日でもない今日という一日。その終わりに出会えた美しい夕映えの空に、今日、命があることの感謝をこめて、美しい歌とたおやかな香りをそっと捧げた。
[香水・フレグランス(レディース・ウィメンズ)・香水・フレグランス(メンズ)・香水・フレグランス(その他)]
税込価格:-発売日:-
2021/10/2 12:51:53
部屋がゆっくり揺れている。湖に浮かぶフローティングコテージだから?確かにそうだけど、こんなに揺れるとは思ってなかった。もう明け方だ。一晩中、気になってよく眠れなかった。
夫は隣のベッドで寝息を立てている。その姿を見やり、女は小さくため息をつく。もう日が昇った。今朝はこのラチャプラパ湖をカヤックでクルーズする予定なのに。こんな調子じゃどうなることか…。
昨夜、夢うつつの中、以前付き合っていた彼の夢を見た。ジャングルの奥、ギャーギャーと鳥が騒ぐツリーハウスのベッドで、彼の息づかいを耳元で聞いていた。その身体の重みと獣のような腕の力に身をよじり、はっと我に帰ったら、涙がひとすじ頬に流れていた。それから眠れなくなった。コテージは静かに揺れていた。心みたいに。
ベッドから身を起こして木の引き戸を開け、湖に浮かぶテラスに出た。まばゆい日射しが鏡の水面に反射して目がくらくらした。足下近くで魚が水面で跳ねて波紋を立てた。両眼に手をかざしながら、そのとき女ははっきりと見た。湖の向こう、垂直に切り立った巨岩が水面に並び立ち、メレンゲをとかしたような白い霧に包まれている姿を。その瞬間、心のさざ波は凪いだ。
夫を起こさぬようにベッド脇に戻ると、バッグから香水を取り出した。エラ・ケイの「カオソックの朝霧」。この日のために持ってきた香水だ。タイのカオソック国立公園。世界最古とされる熱帯雨林のジャングルと、広大なラチャプラパ湖にそそりたつ巨岩や奇岩の絶景が見渡せる地。ここに来てこの香りに包まれることが、この旅の小さな目的の1つだった。
女はカオソックの朝霧をうなじとデコルテと腕とウェストにプッシュした。ぱっと洋酒のような透明な香りが広がり、包まれた。
すぐに香ばしいサンダルウッドが浮かび上がる。それは手つかずのジャングルを思わせる木々の香り。巨大な葉を広げる熱帯植物。ゴムの木から採取する生のラテックスの匂い。スッキリと、けれど柔らかく、朝もやのようにうっすらと香り始める透明なウッディトップ。
やがて5分ほどすると、木の香りが乾いてスパイシーな風情を醸し出してくる。そこからエキゾティックな南国系ホワイトフローラルの香りが浮かび上がってくる。
この花の香はスパイダーリリー。白く長い6本の花弁が蜘蛛の足を思わせる熱帯の植物。別名ヒメノカリス。スパイダーリリーの香りは、ユリのようにちょっとツンとくるスパイシーさをもつスッキリホワイトフローラルのようだ。ガーデニアとのミックスで、クリーミーな気配もふんわり漂っている。
カオソックの朝霧は、このサンダルウッド&クリーミーフローラルがとても柔らかく香るシングルノートの香水だ。濃度はEDPだが香り立ちはとても淡い。深い密林と青い湖面の境界にたゆたう朝霧のように、静謐に4〜5時間ほど香る。
私もこんなふうに穏やかに過ごしたい。この香水と出会ったときそう思った。たくさんの美しい香水が並ぶお店で、自己主張の強い香りを試し続けて疲れたとき、不意に手に取ったカオソックの朝霧。そのライトグリーンの色と静かな香り立ちが心に掛かり、一番気に入ったことを思い出す。
「早いね。あーよく寝た!」
夫はフローティングコテージの揺れなどなかったかのように、少し乾いた声で起きてきた。笑顔で返す。朝霧を遠くに見つめながら、改めていい人と結婚したと思う。穏やかでやさしくてまじめで…
カオソックの朝霧の香りがゆっくりと落ち着いてくる。少しずつ香ばしいサンダルウッドが温かみを増してくる。この香りはソニア・コンスタンが調香した他の作品と比べても、特別香り立ちがひかえめだと思う。彼女はどんな思いでこの朝霧を見つめたのだろう。
「さ。朝食運んでもらうね。そしたらいよいよこの湖をカヤックでクルーズだ!」
シャツの袖に腕を通し、夫がコーヒーを淹れながら言う。ありがとう。マグカップを受け取る。2人でしばしテラスから遠くの島々を見つめる。見つめながら、夫が自分の肌に触れなくなってからもう何年たっただろう、とふと思う。
夫は優しくて温かい。けれどなぜ時折、こんなにさみしいんだろう。
不意に香水をつけた胸のあたりから、アニマリックな気配を感じて身を固くする。夢に見た彼の息づかいを思い出す。心が止まる。日が高く上る。霧がうすくなり始めている。
私の心にも 霧がかかってる この霧も いつか晴れるんだろうか
やがて船が迎えにきた。夫は笑いながら乗りこんだ。眠い目をこすって後に続いた。船は静かに湖面をすべり始めた。
船がゆっくり揺れている。どこからか木と花の香りがしている。
お運びいただきましてありがとうございます。いつまでも女性でいたい!外見も内面も...お若い方から先輩の皆様、もちろん、同世代の方々のクチコミ、ご意見を… 続きをみる