
- doggyhonzawaさん
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2026/1/1 00:04:21
最初に言っておく。ビヨンドラブは「愛らしい白い花」の香りではない。チュベローズという花が持つ、最も危険で、最もあらがいがたい側面を正面から突きつけてくる香水だ。
By Kilian が2007年に放った最初期の香りのひとつ、それがビヨンドラブ。
ブランド黎明期、キリアン・ヘネシーは「香りより先に名前を決め、物語を用意する」という手法で香水制作を始めた。その思想を知ったうえでこの香水を嗅ぐと、すべてが腑に落ちる。これは“愛の中”の香りではない。愛を踏み越えた、その先の匂いだ。愛なんて生ぬるい。ビヨンドラブは、理性を喰らい尽くす純白の捕食者だ。
だから、香水というものを単なるファッションやモテ、身だしなみと捉えている人は、この先を読む必要はない。ビヨンドラブは、まとう者の心を縛り付ける見えない鎖であり、魂を溶かす美しい呪いの雫だからだ。
2007年、香水界の貴公子キリアン・ヘネシーが立ち上げた「L'uvre Noire(黒の傑作)」コレクション。その中に、ひときわ異彩を放つ一瓶があった。「Beyond Love(愛を超えて)」と名付けられたその香水には、さらに「Prohibited(禁じられしもの)」という背徳的なサブタイトルが刻まれている。知っていて損はない。副題をつけたキリアン初期作品は、どれも恐ろしい熱量をもつ初期衝動の塊だ。自分もこの歳まで知らずにいて、今頃震撼している。
愛を超えた先にある「禁じられた世界」。それを物語る主役は、夜に咲き人々の心を惑わせる禁断の花、チュベローズ。
調香師カリス・ベッカーとキリアンが目指したのは、神が創造した「花そのもの」への挑戦、すなわち「リファレンス(絶対的基準)」の構築。世界最高のチュベローズ香水だ。
ビヨンドラブをスプレーする。その瞬間、世界は反転する。一瞬で肉感的な白い花の香りに心が持っていかれる。同時に、鼻腔を貫くのは鋭利な刃物のようなグリーン。 生のチュベローズだけが持つ青臭い茎の匂い。そしてカンファーにも似た、背筋が凍るような冷ややかさ。それらが一瞬で進撃してくる、それはまるで、真夜中の花畑に迷いこみ、暗闇の中で白いドレスの女性に抱擁されたように。思わず「えっ…」と声が出る。 それぐらい心を一気にわしづかみにされるトップノート。
やがて体温という熱を得て、花はその本性を現し始める。 ミドルからラストにかけてのジャスミンとチュベローズの饗宴は、まさに「耽美」の一言に尽きる。 ほんのり感じられるココナッツのアコードは、チュベローズが本質的に隠し持っているラクトニックな肉感を極限まで増幅させるための媚薬。それは塩バターのような低音で響き、とろけるようになめらかだ。だが、決して重くない。まるで自分の肌そのものが、甘美な花弁に変異してしまったかのような錯覚。ジャスミンのインドールは獣のような荒々しさを模倣し、甘いムスクが理性の境界を曖昧にしていく。
かつてヴィクトリア朝時代のイギリスでは、未婚の少女たちが夜のチュベローズ畑に近づくことを禁じられていたという。「そのあまりに官能的な香りが、彼女たちの理性を狂わせ、オーガズムを誘発する」と恐れられたからだ。 現代においてその秘密を身に纏うことの意味。 それは、自ら進んで禁域へと足を踏み入れる行為に他ならない。
この香水は、他者に「いい香り」と思わせるための道具ではない。 ビヨンドラブは、自分自身の内側に眠る「情熱」や「狂気」を呼び覚ますための、儀式的な装備だ。 残念ながら、この傑作は現在、廃盤(アーカイブ)となり、入手は極めて困難。世界中のファンが血眼になってよい状態のユーズドを探しているといういわくつきの逸品。だからもし奇跡的にこの漆黒のボトルに出会うことがあれば、迷わず試してみてほしい。 そのあまりに生々しい強香にたじろぎ「これはつけこなせない」と敬遠する人も多いという。けれどそれはきっと、あなたの人生における「愛」と「官能」の定義を書き換える、衝撃的な体験となるだろう。
安っぽいロマンスや、予定調和のハッピーエンドに飽き飽きしているあなたへ。 愛することに疲れ、それでも愛に飢えている、美しき獣たちへ。 この香りは、あなたの孤独と絶望に寄り添い、そして背後から優しく喉笛に噛み付く。
呼吸するたび、甘やかにおかされていく自身の体温。気付けばあなたは、狂おしい蜜香を闇に漂わせる孤高の白い花となる。
ようこそ、愛を超えた執着という名の楽園へ。
誘惑に堕ちた断末魔どもの残響の彼方へ。
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2025/8/30 15:31:47
太陽がくれた「神のオイル」、タヒチアンティアレとココナッツヴァニラの濃密な香り。
キリアン パリの「サンキッスド ゴッデス」は、2024年に限定発売された香水だ。ブランド創業者キリアン・ヘネシーが、ポリネシアの伝統的な万能オイル「モノイ」に着想を得て創り上げたこのフレグランスは、太陽に焦がれた肌を鮮やかに彩る優美な香りに満ちている。
モノイはティアレフラワーをココナツオイルに浸した神秘の香りであり、タヒチ島の女性達が日常的に保湿・美容、神聖な儀式に用いる「神の贈り物」として愛されている。
サンキッスドゴッデスは、モノイのエモーションを調香師カリス・ベッカーが現代の感性で再解釈したもので、キリアン自身の夏の思い出と五感を体現した一遍のロマンティックな詩のような香水だ。
美しいゴールドキャップを外し、サンキッスドゴッデスをスプレーする。
その瞬間、可憐なティアレの花と香ばしいココナッツの香りが、一気に真夏の楽園へといざなう。太陽に祝福された肌が、波音に誘われてきらめく。南太平洋のまばゆい白い砂浜、どこまでも透きとおるエメラルドブルーの海が眼前に迫るトップ。
目を静かに閉じてさらに香りを味わう。
ティアレの低音部を影のように寄り添う、熟れたバナナのようなフルーティーが感じられる。それは黄色いイランイラン。白く小さなティアレの花が、ココヤシの木陰で海風に花弁を揺らし、妙なる香りを放っている。密林の奥からは誘いこむようなイランイランの香りが、時折風に乗って運ばれてくる。その情景がありありと眼前に浮かぶ。
遥かなる楽園。くつろぎのひととき。強い陽射しと同じくらいに濃い、熱帯植物が砂浜に落とす陰影。生き物の匂い、強い潮風、熱帯の密林が放つ濃厚な緑の吐息。
その中に咲きほこるエキゾティックな花々。したたる蜜の匂い。
ティアレフラワーの純白とイランイランの蠱惑の共鳴。白い花びらが眩しい太陽の光を浴びて輝く影で、細くうねった黄色い花弁のイランイランが妖しく揺れる。その対比の妙、バランス。
肌にまとわる熱い潮風と、太陽の光に溶ける花の香の甘さ、その二重唱。それらを包みこんでゆく甘く切ないココナッツオイルのクリーミーとヴァニラの狂おしいヴェールに心がほどける。
それぞれの香りのアコードが、ビーチチェアに身体を預ける女性の褐色に灼けた肌をやさしく包みこむ。いつまでもここにいたい。時間とこの身をこんがり灼いて溶けてしまいたい。そう思わせる歓喜と官能の香り。
日が傾くほどに、香りは深く温かみに満ちていく。ウッディとシスタスラブダナムのわずかなスパイシーが、鼻腔の奥に忘れ得ぬ夏の甘苦い余韻を灯す。
南の島の夕暮れ。昼と夜の狭間。黄金色に染まりゆくビーチ。波の破片が金色にきらめき、指先から肌へと太陽のぬくもりが火照りを与えてゆく時間。遠く水平線に溶けてゆく夕陽に頬が赤く染められる。刻々と変わりゆく夕闇のグラデーション。オレンジに萌える空の上で南太平洋の星々が巡り始める。その永劫の営みの中、身体が潮風と花の香りに包まれている。バルコニーでグラスを傾けて、夜の始まりのしじまを感じるひととき。白く柔らかなティアレの花が心に咲いている。
キリアンのブランドにふさわしいラグジュアリーな持続力と品格にあふれ、それでいて押しつけがましくない香水の1つ。ひと吹きで長時間、肌にそっと寄り添いながらも過度に主張しない。自分偏愛のローリングインラブのように、すっと肌に寄り添い、自分の匂いに同化してゆく。キリアンはこの「肌と香りのすり合わせ」を何よりも大切にしている印象がある。香り自体の構築美と余韻は格段に秀逸、それでいて香りをつけた人の肌感覚がどうなるかを徹底的に突き詰めている。どこまでもロマンティックに、自分の肌から立ち上る香りで夢を見続けられるのか。洗練するということは何を引き算するかということ。それをキリアンはいつも大切にしている。そう思う。
やがて夜の海。ぬるびた風が止まり、銀の月が波頭を揺らし、島のかがり火が夜の入口を告げる。サンキッスドゴッデスのラスト、ココナッツヴァニラの優雅な香りが、静かに、けれどこまでもエキゾティックに心と身体を楽園の迷宮に導いていく。どこまでも深く。
漆黒の海。その頭上。満点の星空に幾億もの星々がまたたいている。海風に長い髪が巻き上げられ、ティアレの白い花弁がふわりと宙に舞う。
ゆっくりと瞳を閉じる。黒髪の背中が波音に重なる。消えゆくラストに、交わした言葉の記憶が紡がれてゆく。
それは真夏の抱擁。太陽が恋した夏の女神への柔らかなキス。
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2025/5/30 00:04:41
また1つ、魂が震える香水に出会ってしまった。これまで1000本以上の香水に出会ってきたが、これは確実に10本の指に入る天国の香り。その名はディヴァンシェ。ピュアディスタンス(以下PD)の最新作。2025年5月16日発売。
ディヴァンシェ、それは「日本のクチナシ」の香りから生まれた天上の楽園の花。白い朝に舞い降りた天使の羽根の香りだ。
この香りの誕生には、ピュアディスタンスジャパン代表・Sachiさんの特別な思いが息づいている。
ある年、初夏の東京。来日中だったPD創業者ヤン・エワウト・フォス氏は、Sachiさんとの語らいの中で不意にこう尋ねた。「Sachi、『天国の香り』とはどんな香りだろう?」そのときSachiさんは「それなら、日本の初夏に咲くクチナシの香りでは?」と微笑んだという。その言葉は、静かな湖面に落ちる一滴の雫のように、フォス氏の心に大きな波紋を広げた。
フォス氏の情熱に火が灯った瞬間だった。その後、Sachiさんはフォス氏の求めに応じ、東京のクチナシの花を摘み、伝統的なアンフルラージュ法で香料バターを作り上げ、パリの名調香師ナタリー・フェストエアに送り、その調香に思いを託した。そしてディヴァンシェはこの世に誕生したという。
世界に類を見ない「日本のクチナシ」の命を宿したディヴァンシェ。その香りは28%という高濃度のパルファム・エクストレでありながら、天使の羽衣のように軽やかに、纏う者の肌近くで秘めやかに香り、その心を夢幻の楽園へいざなってゆく。
ディヴァンシェのトップノートは、シアーな洋梨、リンゴ、パイナップルが奏でる、みずみずしい果実のシンフォニー。果実の一滴が肌にしたたる瞬間、フレッシュな清らかさが広がる。洋梨の甘いジュースはクチナシの花のしっとり感と溶けあい、リンゴのフルーティーな酸味が香りにほのかなリズムを与える。パイナップルのジューシーな明るさは朝日のように輝き、白い花の香りを一気に解き放つ。もうこのトップだけで、身も心もとろけそうになる。
5分ほどするとミドルノートが花開く。ガーデニア、ジャスミン、チュベローズ、チャンパカ──純白の花々がミルフィーユのように織り重なる饗宴。本当に言葉を失うほどの美しいホワイトフラワーアコードに愕然とする。ガーデニアの甘く無垢な香りは、ジャスミンのふくよかさ、チュベローズのクリーミーな官能、チャンパカの柔らかなトロピカル感と重なり、つややかな白い花弁がなまめかしく風に揺れる夜の庭園を思わせる。ヘリオトロープのパウダリーな余韻とクリーミーノートが肌に寄り添い、美しいセレナーデを奏でる。
やがてスプレーして2時間ほどたつと、香りは不思議なラストノートを迎える。ベンゾインの樹脂の甘さ、アンブロクサンやアンブレットのムスキーな官能が、優しく全身を包みこむ。特筆すべきはその核に「キノコのバターソテー」風の、わずかに「肉感」のあるファセットを有していること。このややアニマリックな香りは、ミドルから白い花のブーケの輝きと併走し、美しいベージュの影のようにずっと寄り添っていたものだ。これには心底驚いた。
花の香りはときに、その奥に生々しい「肉の香り」を有していることがある。ディヴァンシェを調香したナタリー女史は、クチナシの生花コンクリートのたおやかな花香の奥に、こうしたバターキノコ風の「肉香」を内包していることに気付き、そのひとさじの「性の妖しさ」までも緻密に再現したのだ。これによりディヴァンシェは、あまたあるガーデニア香をはるかに超越した「生花らしさ」を再現し、うっとりするような華やかさのみならず、性の神秘すら感じさせる媚薬のごとき秘香にまで昇華している。もはや容易にあらがえるものではない。ディヴァンシェはその名の由来である「神聖な雪崩」のように、静かに、けれど確実に人の心の結界を崩し、香りの無間地獄に引きずりこんでゆく。
持続時間は驚くほど長く、朝に纏えば夜まで優雅な余韻が続く。高濃度でありながら決して重くなく、肌に溶けこむような軽やかさが10時間ほど続く。他の香水と比べても、その透明感と気品、そして唯一無二の日本的な静けさと美しさは際立っている。
朝もやに包まれた庭園、露をのせた純白のクチナシが咲いている。柔らかな光が差しこむと白い花は揺れ、甘い蜜の雫を落とし、そのみずみずしい香りが空気中を満たす。香りの粒子は霧雨のように静かにたゆたう。どこかで小さな天使が羽ばたいているように。
ディヴァンシェ。それは、天上の楽園へといざなう白き福音。無垢なる純白の星。…いや、どんな厨二ワードもこの香りの前では無力だ。
ディヴァンシェ。なんと残酷な香水だろう。天国の香りの前で人は、ただただ無言になる。
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2025/4/26 10:28:14
夜を駆ける情熱的なローズ。
ドリス・ヴァン・ノッテン「レイヴィング ローズ」は、クラシックな薔薇香水のイメージを覆すモダンなローズ香水だ。この香水は、2022年にベルギーの鬼才デザイナー、ドリス・ヴァン・ノッテンが自身の美意識を香りで表現するために立ち上げたビューティーコレクションの一作で、調香師ルイーズ・ターナーの手によって創られている。ドリスは伝統的なローズ香水の概念を壊し、モダンでスパイシーな「ローズらしくないローズ」を目指したとされる。そこには、ファッションブランドとして常に自身が追い求めてきた「不可能な組み合わせ」という哲学が感じられる。
ドリス・ヴァン・ノッテンといえばまず思い浮かぶのは、斬新なスタイルと独自性で一躍ベルギーを世界的なファッション都市として認知させた「アントワープシックス」の一人であるということ。彼らは構築を崩し、実験的なデザインで自己表現をするというアプローチで、ファッション界に新風を巻きこんだ。ことにドリスのデザインは「異素材どうしの組み合わせ」が特徴で、それはこの香水のボトルデザインにも表れている。バブルガムピンクのキャップとメタリックレッドのベースが鮮烈なコントラストを描き、視覚的にも現代アートのような存在感を放つ。このボトルは、ドリスの自宅の庭に咲くバラをインスピレーション源に、彼の「花を奇妙に組み合わせるリスクを楽しむ」姿勢がそのまま投影されている。
そしてこの「異素材どうしの意外な組み合わせ」という哲学は、もちろん香りにも反映されている。では「熱狂のバラ」とは、どんな香りなのか?
レイヴィング・ローズのトップは、透明感あるペッパーの辛みと清涼感、そしてややソリッドでシャープなバラの香りが同音量で出てくる。クレジットによるとペッパーは、ブラックペッパーとピンクペッパーがあり、確かに酸味とフルーティーさをもつピンクペッパーの感じも出ている。最初から、バラとコショウの香りが鮮烈に弾けるトップノート。とはいえ、キッチンで使うコショウの香りではない。とてもスッキリして鼻の奥に気持ちよく抜けていくウェッティーな香りだ。甘さや優雅さに寄りかからず、フレッシュでありながらも情熱的な立ち上がり。
やがて5分もすると、ローズの香りが少し強くなってくる。エッジの効いた硬いローズが、ふんわりと花弁を広げたかのように、柔らかさをともなって感じられてくる。このミドルには、ローズウォーターとローズアブソリュートが配されていて、芳醇で奥行きのある花の香りが広がってくる。ここでも甘さはなく、酸味とほのかな青さを残しながら、生花っぽいバラの香りを呈して香ってゆく。
時間が経つと、ローズの奥からカシュメランのツンとした苦みが少し感じられてくる。それが柔らかなバラの印象とは対照的で、最後までどこかトゲのある緊張感を感じさせながら終息していく。ほんのりウッディなムスクが肌に溶けこむように感じられ、官能的な余韻を残す。トップからラストまで、香りはペッパーとローズという2つの軸をそのままに、少しずつ変化し続け、「終わらない夜」の香りをたなびかせる。
持続時間は、自分の体感で4時間ほど。香り立ちはややひかえめ。香料の種類は本当に少ないようで、ペッパー系とローズ系がメイン。ベースにウッディムスクが少々といった程度。可能な限りムダを配し「花とスパイス」という本当にシンプルな対比に落としこんだ香水といった印象。ローズ系香水は本当にさまざまあるが、中でもとりわけシンプルな構造に思える。その分、男性にも女性にも違和感なくフィットし、ビジネスシーンから特別な夜まで幅広く使える汎用性の高さはあるだろう。
レイヴィング・ローズの香りをつけていると、オフよりもオン、カジュアルよりもスーツやドレス、そして自然よりも人工的な街の風景や都会の夜。そんなシーンを駆け抜ける一輪の薔薇、といったイメージが似つかわしいように感じる。それは、ネオンに照らされたアートギャラリー、または静寂な夜明け前のガーデンパーティー、あるいは誰もいない劇場の舞台袖。そうした光と闇が形作るコントラスト、伝統と革新の融合、静けさと情熱が交錯する街の表情。そこで生き抜くために、この香りを纏って颯爽と風を切ってゆく。そうしたスタイリッシュな生き方を求める人にこの香りはよく似合う。
夜の灯に薔薇の香りが揺れる。スパイスの香りに心が浮きたつ。今夜、何かあるかもしれない。そんな華やぎの予兆を感じている。
終わらない夜、駆けぬけるレイヴィング・ローズ。
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2025/4/12 13:06:39
その異様な椿を目にしたとき、彼は感嘆した。2本の幹が途中で交わり、一つになって枝を広げている。解説の声を聴く。「こちらが八重垣神社が誇る『連理玉椿』、2本の椿が1つにくっついた大変珍しい木でございます。通称『夫婦椿』と呼ばれ、夫婦和合、授児安産の守り神とされております。」
その神秘的な椿に魅了された彼の名は福原信三氏。(株)資生堂初代社長。ときに1930年頃。昭和恐慌によって大打撃を受けた老舗店の社長は、商売繁盛の願いをこめて自社にゆかりある島根県「出雲大社」を夫婦で参拝した。その際に紹介された場所こそ、件の霊木「連理玉椿」がある八重垣神社だったという。
彼は2本の椿が1本に交わる光景を見ながら、不思議な縁を感じていたはずだ。資生堂が初めて店舗を構えた地が銀座「出雲町」であったこと、明治や大正の頃に「花椿」の香油と香水が大ヒットしたこと、それを受けて自身が「花椿マーク」をデザインし、それがまさに2本の椿の花や葉を描いたものであったこと。
「やはり資生堂と出雲、花椿は切っても切れないご縁がある」そう感じたに違いない。そしてこれ以後、資生堂は出雲との関わりを深め、破竹の勢いで日本の化粧品事業をけん引していくこととなる。
こうしたきっかけとなったのが、資生堂初の香水「花椿(1917)」だ。
この香水は何度か復刻されているが、ここで紹介するのは「花椿オードパルファム(1987)」だ。こちらは87年に花椿会会員に贈られた非売品。フリマでは今も時々見かけるので、探してみるのも一興だろう。
では、どんな香りなのか?
ボトルのふたを外し、びんの口から直接肌に香りをのせる。はじめに感じられるのは、爽やかなグリーンノートだ。弾けるような生っぽい青葉の香り。それは春先の庭園で朝露に濡れた葉を見つめるような爽やかさ。ガルバナムのようなスッキリビターなグリーンの奥に「ああ、資生堂のパウダリーベースだ!」と感じる独特の石鹸系フローラルな白い香りが広がるトップ。
このグリーン系トップは、あのツヤツヤの見事な緑色の葉を思わせるに十分なインパクト。なるほど。確かに椿は赤い花ばかりじゃない。むしろあの美しい緑葉の連なりも大きな魅力だと再確認する香り。
調べてみると、資生堂は1930年代に社長が出雲を訪れて以降、毎年幹部も出雲大社に参拝するようになり、1935年には東京銀座資生堂ビル・資生堂パーラー前に出雲椿(ヤブツバキ)が植えられ、「花椿通り」と呼ばれるようになったという。その一面のヤブツバキの緑、それが花椿EDPのトップではよく香る。
つけて10分ほどすると、グリーンが次第に和らいできたことを感じる。下からパウダリーで優しいフローラルがグングンせり出してくるのがわかる。ほんのりカーネーションのスパイシーさもある赤い花の香り。クレジットに見られるのは、ローズやフリージアだが、ややワックス感の強いローズが強めで、少しアルデヒド調といった風情。その中にわずかにピーチのようなラクトン系の甘さが溶け込み、赤い椿の花びらに触れるような感覚を呼び起こす。そんなミドルになる。このミドルが柔らかく1時間ほど続く。
フローラルがうすらいでくると、キュッと鼻孔の奥に刺さる石鹸調ムスクが感じられてくる。アリサ・アシュレイやジョーヴァンムスクのような清潔系。昔よくあったと思い出すムスキーなラスト。グリーンも花も消えて、湯上がり感の清楚な香りになってくる。このラストがフローラルも感じさせながら2時間ほど続く。最後はパウダリーさも出てきて心地よい。
全体的に見ると、トップ、ミドル、ラストと明確に香りが変化していく調香。香調は、グリーン、フローラル、ムスクと変わる。色調変化は、緑→赤→白。各香料がきれいなアコードを作っていて、シームレス。美しいハーモニーを描いている。各香料の香り方の特徴と持続時間を計算して作られていて、よくできた香水だと思う。
そして椿に思いをはせた福原氏の心を思う。
福原氏は、かつて水皿に浮かべた椿の花をモチーフに資生堂の「花椿マーク」を自身でデザインしたという。その心にはどんな情景が広がっていたのだろう。
静かな水辺。そこに佇む椿の木々。風が吹くたび赤い花びらがひらひら舞い、水面へ落ちる。その瞬間、小さな波紋が幾重にも広がり、湖面はまるで絵画のような静寂に包まれる。遠くには霧が立ち込め、柔らかな光が差し込み、椿の花だけが鮮やかにその「美」を主張する。真っ赤な睡蓮花のように。
2つの椿が寄り添うイニシアル。それは資生堂の誇り。水皿と7つの葉は、7つの海と大陸を超えて日本の「美」を世界へ広げる資生堂の矜持。
それが 幻の花椿の香り。
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