doggyhonzawaさんのネスト / ブラックチューリップへのクチコミ |
---|
- doggyhonzawaさん 認証済
-
- 53歳
- 乾燥肌
- クチコミ投稿426件
-
[香水・フレグランス(レディース・ウィメンズ)・香水・フレグランス(メンズ)・香水・フレグランス(その他)]
税込価格:-発売日:-
2019/4/13 14:19:34
「ブラックチューリップが咲いたらまた会おう。」
男はそう告げて女の前から去った。女のマンションのベランダに球根を2人で埋めたのが11月。あれからもう半年だ。男はシアトルへ旅立ち、女は一人になった。そして今、チューリップは大きなとがった葉の中に緑のつぼみをのぞかせている。離れて以来、男からの連絡は一度もない。それでも女は待っている。黒チューリップの花言葉は「劇的な再会」だ。
女は荷物をスーツケースにまとめて部屋の隅に置いてある。本当にこのスーツケースを持って彼の元へ行けるのだろうか、時々そう考える。黒チューリップの球根は男が買ってきた。暗く静かだった2人の暮らしを象徴するような花だと女は思った。茎を伸ばし始めたつぼみは大きな緑色の涙の形をしている。どこか冷めていく自分の心と反比例するように、つぼみの茎は日に日に伸びていった。
ある日、女は街でブラックチューリップという名の香水を目にした。スクゥエアなボトルに描かれた妖しい紫の花に目が吸い寄せられ、足を止めた。ボトルをそっと手に取って眺めた。めざとく見つけた店員が左舷からすり寄ってきて声をかけても、女はまだ見続けていた。
すてきな絵ですよね?ネストというアメリカのブランドの香水なんですよ。よければ試してみませんか?
返事もままならぬうちに、派手なピンクのリップを引いた女店員は細長いムエットを手に取ったかと思うと、テーブルマジックでもするみたいに大仰にボトルを振りかざし、シュッとスプレーしてひらひらと空中で振ってから女の手にそれを渡した。
くどいくらい甘くて暗い花の香りがする。女はそう思った。
いかがですかー?
唇の大きな女性店員はここぞとばかりに瞳を開いて一人でまくし立てた。
こちらネストというアメリカのブランドの香水なんですけど、ほらこの独特のお花のイラストがいいでしょう?これ18世紀に活躍したメアリー・デラニーという方のペーパークラフト作品なんですよ、すごいですよねーこの精密な色!香りの方はですねーこのブラックチューリップは最近流行のフルーティーなお花の香りになってます、甘いですよね?これ実はプラムの香りなんです。プラムってほら黒というか紫といいますか、ありますよね独特の暗い色!ちょうど黒チューリップもあんな感じの色なんですよねえ、うん。そのプラムの暗い甘さといいますか、それと同時に他の香りも出てくるタイプですね。よくいう3段階のピラミッド変化ではなくて一度に香りが感じられるタイプですよね。プラムの甘さとピンクペッパー、それからパチュリとヴァイオレット、これらが混じり合ってとってもフルーティーフローラルな香りになってるんですねえ。ええ。ネストの香水はこの50mlのオーデパルファンでお値段も2万円とお求め安くなってますよー。アメリカでは特に人気が高いですね。シアトルではこのネストのインディゴという香りが香水の人気1位なんですよー。
シアトル?その言葉にふと反応してしまう。そこをチャンスと見たのか、またウンチクをたたきこもうとするピンク唇の攻撃を避けるかのように、女は無言で一礼をして輸入コスメのショップから去った。手にブラックチューリップのムエットを持ったまま。
チューリップのつぼみは日に日に背を伸ばした。緑色の大きな涙は少しずつ色づいていった。ガランとした部屋の中から、女はベランダのプランターを眺めて過ごした。指に巻き付けては引っ張り続けた長い髪の毛が、床に落ちてももう気にしなかった。
部屋の中にネストのブラックチューリップの香りがしていた。何もないカウンターテーブルに置いたままのムエットから、甘く暗いベリーのような香りがまだ漂っていた。その香水を身に付けたいとは思わなかった。それでもこの香りが今の自分の気持ちにしっくりくるように女は感じた。
ある日唐突に女は悟った。彼はもう二度と連絡してこないだろうと。そしてもし連絡があっても、自分があのスーツケースを持ってシアトルへ行くことはないだろうと。なぜかは自分でもはっきりわからなかった。その日、ベランダにチューリップの花が咲いた。
女はベランダに出た。この景色を見るのもこれで最後だろうと思った。足元のプランターには赤いチューリップが2つ並んで咲いていた。黒ではなかった。それを見ていたら力が抜けて笑えた。ずっと考えまいとしていた黒チューリップのもう一つの花言葉が心をとらえて離れなかった。
「私を忘れてください」
ベランダの風はどこまでも心地よかった。遠くのビル群が誰かの墓標のように春の光を受けて輝いていた。そのとき、ブラックチューリップのほのかな香りが一瞬鼻をかすめた気がして
空に飛んで消えた。
- 使用した商品
- 現品
- 購入品